文化の発展に貢献した歴史に残すべきクルマは?…日本自動車殿堂が歴史遺産車を発表
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日本自動車殿堂歴史遺産車は、自動車産業、そして自動車交通及び自動車文化の発展に貢献した歴史に残すべき自動車を選定。主にコンセプト、技術、スタイル、バリューフォーマネーなどに優れた自動車を乗用自動車に加え、2輪車、3輪車、商用車、競技車、特殊自動車などを対象とし研究選考会議において検討を行い、今回は以下4台が決定した。
◇ダイハツ ツバサ号三輪トラック (1932年)
ダイハツは 1931 年当初から、エンジンを国産化。車体も量産性のあるものとして、三輪自動車工業の近代化をリードした。1932年に発売されたツバサ号は、プロペラシャフトと差動装置による駆動方式を初採用し、コーナリング時の運転性を著しく改善したことが選ばれた理由だ。
ダイハツ工業株式会社広報・渉外室室長の小池賢氏は、「ダイハツ工業が創立110周年を迎えた折に、ダイハツツバサ号3輪トラックが日本自動車殿堂歴史遺産車という評価をもらえたことはとても嬉しい」と述べ、「これまでダイハツは軽自動車、コンパクトカーというスモールカーを中心としたクルマ作りを進めてきており、このツバサ号はその原点ともいえるクルマ。これからもダイハツはお客様に寄り添ったクルマ作りを進めていく」とした。
◇トヨタ ランドクルーザー40 系 (1960年)
クロスカントリータイプ 4WDとして、1960 年に発売され、堅牢なシャシー、大排気量エンジンにより、優れたオフロード性能と信頼性・耐久性を発揮。先代をリファインした実用本位のスタイルのまま、機能面の改良を重ねて24年間生産され、世界中で愛用されたことが評価された。
1951年、トヨタ『ジープBJ』から始まったランドクルーザー40系について、トヨタ自動車株式会社CV製品企画チーフエンジニアの小鑓貞嘉氏は、「ランドクルーザーというブランドの礎を築いたというクルマ」と位置付ける。そして、「今でも世界中の至るところで多くのお客様に愛用してもらっている」という。
また、「今後も、先代が築いてきた開発思想である、信頼性、耐久性、悪路走破性を継承し、時代時代のお客様の市場のニーズに応えていく。そして、ランドクルーザーの使命である、お客様の命と荷物と“夢”を運ぶことを叶えるために、壊れないクルマ、もし壊れても必ず帰って来れるクルマ作りをし、世のため人のためにこのクルマを作り続けていきたい」と思いを語った。
◇プリンス スカイライン GT (1964年)
プリンス スカイライン GT はレース出場資格を得るべく、1964 年に限定生産・販売された高性能セダン。スカイラインのフロントボディを延長して『グロリア』の 6 気筒エンジンを搭載、レースで健闘して人気をさらい、翌年 スカイライン 2000GT として量産化、その後の国産高性能セダンのパイオニアとなった。
日産自動車株式会社グローバルマーケティング部の中山竜二氏は、「2リットル6気筒エンジでないとレースに勝てないと提言したのは、先日亡くなられた田中次郎氏(2008年に自動車殿堂入り)だった。当時の国産のトップコンデンサーにに対して、GT2クラスでは、4気筒1.9リットルで十分だろう結論に達していた。しかし、フォード『ロータスコルチナ』がもし参戦してきたらパワーウエイトレシオなどを見る限りでは勝てないのではないかなと考え、外国車を睨んで2リットルに決定したのだ」と当時のエピソードを披露。
そして、「スカイラインはこの春、誕生60周年を迎えた。現在のスカイラインは随分様変わりしたという声もあるが、あくまでも人間中心の、走って楽しいグランドツーリングカーであるというDNAは60年限りではなく、これからも続いていくものだと信じている」とした。
◇スバル 1000 (1966年)
スバル 1000 は水平対向エンジンを搭載した、合理的設計の FF 小型乗用車として 1966 年に発売され、FF による空間効率の高さを証明。四輪独立懸架 インボード式フロントブレーキ、デュアルラジエーターによる3段階式冷却システムなど、多くの優れた技術も採用した。
スバル広報部主査の清田勝紀氏は、「現在スバルで商品開発、企画をしているクルマは全て水平対向エンジンを搭載。スバル1000はスバル車の中で初めて水平対向エンジンを搭載したクルマであり、水平対向エンジンの礎となったクルマだ」と紹介。
そして、「今のスバルがあるのはこのスバル1000と、そこに様々なエポック的な技術を取り入れた先人たちの先見の明があったからだと強く思っている。このことをこれからのスバルを支える人間もしっかり受け継いで、素晴らしい魅力あるクルマ作りに邁進していきたい」と述べた。
歴史遺産車はダイハツツバサ号、ランクル40、スカイライン、スバル1000---日本自動車殿堂
《内田俊一》
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