ヒルマン・ミンクスをフルレストア!… いすゞプラザ 特別展示中
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イベントレポート
ピカピカになったヒルマン・ミンクスが展示されているのは、神奈川県藤沢市にある「いすゞプラザ」。ここはいすゞ自動車創立80周年記念事業の一環として2017年に開館した、一般にも無料で開放されているミュージアム。同社が所蔵する貴重なレストアカーのシリーズ企画展だ。
戦後、日本は外国車の払い下げや新車の輸入、中古車の譲渡等が多かった。そんな中で通産省は自動車工業育成のために1952年、「乗用自動車関係提携および組立契約に関する取扱方針」を発表。日産自動車とオースチン、日野ヂーゼル工業とルノー、新三菱重工業とウイリスオーバーランドエキスポートなどと、各社提携が進んだ。
その中から生まれたのがヒルマン・ミンクス。いすゞが英国の自動車メーカーであったルーツ・グループ製の小型車をノックダウン生産したもので、バス・トラック専門メーカーだった同社初の乗用車となった。
現在、いすゞブラザに特別展示されているのは以下の3台だ。
・1953年 PH10型
なんと、1953年10月28日に完成したノックダウン生産のラインオフ第1号車だという。88年に試作部でレストアした後、89年開館のトヨタ博物館に貸し出されて22年間同館に展示。11年にいすゞへ里帰りした個体だ。エンジンは1265ccの直4サイドバルブという旧式の機構で、最高出力は37.5馬力。トランスミッションはローのみノンシンクロの4速コラムMTが組み合わせられた。室内は前後ともベンチシート仕様で、4人乗り。インパネはセンターメーター式となっている。
・1956年 PH12型
初代後期型。部分的に国産化されている。トランクルームやリアウィンドウの拡大などのマイナーチェンジが実施され、乗車定員は5名に。エンジンを1390ccのOHV化へと近代化し、最高出力は43馬力にアップしている。この個体は首都圏在住の個人オーナーから譲渡されたもので、ボディは黒に塗り替えられていたが、下地に残っていた塗装色を分析しオリジナルのツートーンを再現している。カラー写真がなく当時は絵のカタログだけで、社内にカラーサンプルもなかったので苦労したという。前オーナーはこの車で映画出演。運転手役となって後部座席に高峰秀子を乗せたという。
・1961年 PH400型
1957年には完全国産化となり、60年にはテールフィン追加、Fグリル、テールランプ、サイドモール、インパネなどが変更。優雅なスタイルに。このころから英国製ヒルマンとは関係なく、いすゞ独自のスペックとなった。この個体は東京在住の個人から譲渡されたもので、2016年にレストアされた。ラジエターグリルはノンオリジナルだったため、図面から起こして3Dプリンターで作りメッキを施した。エンジンは1494ccで62馬力。驚くのは、Fバンパーに取り付けられた”前照灯自動切替装置”。当時の『いすゞ技報』には「松下電器産業と共同研究して、日本で最初に開発したもの」とある。対向車のヘッドランプの光を受けると回路電流を変化させてハイ&ローを自動で切り替えるというもの。実用性はいかばかりか、興味深い装置だ。
1953年から始まったヒルマン・ミンクスの生産は1964年まで22年間続いた。生産開始時はタイヤ、バッテリー以外は英国からのノックダウン品だったが、徐々に国産化を進め、4年後には100%国産化を達成。急速に技術力が上がり、その後の品質向上にも大きく貢献している。当時、英国の自動車評論家が本国製より仕上げが良いと評論したともいわれている。累積生産台数は57729台だった。
いすゞは習得した技術を基に、まだヒルマン・ミンクスを生産していた1962年に独自開発の乗用車『ベレル』を、63年に『ベレット』を発売。その後、『117クーペ』『ジェミニ』『ピアッツァ』などが誕生していった。名車ばかりである。
社内文書によると「国産化を通じてルーツ社から習得したものは多いが、特に設計・実験方法、生産技術、コスト管理などで多くを学んだ。また材料・部品に関しては協力部品企業と共同で性能・耐久性の改善を図ったため、協力企業の水準も大きく向上し、その後の飛躍の基礎となった」という。
いすゞプラザは見どころが多い。いすゞが初めて生産したトラック『ウーズレーCP型』やベレルなどの乗用車など歴代の名車を展示。いすゞの歴史やものづくりの哲学を大人から子供まで実感できるスペースとなっている。一般に広く開放されていて、入場は無料。コロナ対策のため全日完全予約制。「いすゞ車秘蔵コレクション ヒルマン・ミンクス」は2021年4月末まで開催。
秘蔵のヒルマン・ミンクスを特別展示中…いすゞプラザ
《嶽宮 三郎》
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