初代ローレルの美しいラインを生み出したデザイナーとモデラーが語らう…ローレルC30を語る会2022 | CAR CARE PLUS

初代ローレルの美しいラインを生み出したデザイナーとモデラーが語らう…ローレルC30を語る会2022

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ローレルC30を語る会 2022
ローレルC30を語る会 2022 全 28 枚 拡大写真

東京都武蔵村山市にある東京日産自動車販売新車のひろば村山店で10月2日、「ローレルC30を語る会」が開かれ、当時のエクステリアデザイナーとモデラーによる、熱く濃いトークが繰り広げられた。

初代C30型の日産ローレル』のオーナーズクラブが、当時の生産拠点だった日産村山工場跡地にある日産販売店の一部を借りて行っているイベント。C30のエクステリアデザイナーを担当した澁谷邦男氏による前回のトークコーナーに続いての企画で、今回は「1960年代の日産デザイン部門の様子」と題し、澁谷氏と当時のモデラーだった太田幸夫氏によるトークがメインとなった。

初代ローレルは1968年にデビュー。当時日産社内で使われていた「プロジェクトマル中」戦略車で、小型車のブルーバードと中型車の『セドリック』の間を埋めるハイオーナーカーとして生まれた。4輪独立懸架やラック&ピニオン式のステアリング、プリンス自動車直系のG型1.8リットル直列4気筒SOHCエンジンなど、優れたメカニズムを搭載。フロントウインドウの思い切った傾斜や三角窓を無くしたクリーンなサイドヴュー、直線基調の張りのある面構成など、気品のあるスポーティなエクステリアデザインが斬新だった。

このデザインを担当した澁谷氏が全幅の信頼を寄せていたのが太田氏である。太田氏は当時の日産モデルショップ誕生期のパイオニアともいえるモデラー。1959年に日産設計部造型課に配属、1995年に退職するまでデザイナーと連携しての構想やイメージを実体化する立体造形モデルと線図制作を行い、モデルグループのけん引役を務めた。

トークショーは中身の濃いものとなった。採用されたローレルの直線的なデザインはモデル制作においては非常に難しかったことや、それまで1/4だったモデル~線図制作が1/1となりこちらも難度が高かったこと、それまでは木製・板金で原寸大のプロトタイプが作られていたがローレル開発途中でクレイを型取りしてプロトタイプをFRPで作る試みが行われたことなどが話された。

そして1964年にデザイン部署内に若いメンバーによるモデルショップが誕生する一方で、試作車を作る試作部署には太平洋戦争中に飛行機などを作っていた板金職人や木型、縫製、塗装などの職人がおり、ベテラン達の熱気にもあふれていたという。

「(モデル制作の)部屋は、夏は暑くて冬は寒かったです。朝寒い日に行ったらクレイのバンパーが硬化して割れて落っこちていたこともありました」という太田氏。様々なことを乗り越えた結果、ローレルは美しい形でデビューする。「(出来上がったのを見て)OKだなー! と思いました。面と線が思った通りにできたなあと。実物大でデザインしていく大変さはありましたけどやり甲斐がありましたね」。

後年、デザインにもCADが徐々に導入され、モデラーの存在が薄くなるような時期があったという。しかし実際に見た目の美しい仕上がりは、やはりコンピュータには真似のできない、人間の手による仕事が重要だと見直されて現在がある。「触ったり、眺めたり、方々やりながら作り上げていく仕事を、これからは若い人たちに伝えていきたいですね」と太田氏。

今回のトークショーを企画し、聞き役に回った澁谷氏も終始嬉しそうだった。現在、奈良にも居を構え「市内にある多くの仏像も人の作り上げた美しい形。自動車もそうですから、デザインとしての『自動車と仏像』というような本が書けたらと思っているところです」と意欲的だった。

さて、この日集まったローレルは、初期型の「セダン1800デラックスB」、後に追加された「ハードトップ2000GX」、マイナーチェンジされた「セダン1800GL」の3台。初代の主な3車種がそろい、いずれもリアコンビネーションランプが連鎖式点灯の”流れるウインカー”というのも興味深かった。これに関連展示車として初代と3代目の『ブルーバード』、初代の『フェアレディZ』も並んだ。

また、澁谷氏と太田氏の同僚やOB、後輩、教え子、現役の日産のデザイナーなどが来場。閉会後も運営をバックアップした全日本ダットサン会(佐々木徳治郎会長)のメンバーなども加わって、熱いトークが続いていた。

《嶽宮 三郎》

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