いすゞは10回目を迎えるオートモビルカウンシル2025に、ジョルジェット・ジュジャーロ氏(主催者表記)が手掛けたコンセプトカー『アッソ・デ・フィオーリ』を出展した。

いすゞは1968年、『117クーペ』をデビューさせた。そのデザインはカロッツェリア・ギアのジョルジェット・ジュジャーロ氏だった。ジュジャーロ氏はカロッツェリア・ベルトーネを経てイタルスタイリング(のちのイタルデザイン)を宮川秀之氏と設立するが、その間もいすゞとの関係は続いていたことから、117クーペの後継としてデザインスタディの提案が彼らから複数回行われていたという。
その中に“コンパクトで実用性が高く、しかもスーパーカーとしてのディグニティを持ち得るクルマ”というSSC(Small Super Car)構想があり、当時のいすゞ首脳部が興味を示したのがアッソ・デ・フィオーリの始まりだった。
そこでいすゞからジュジャーロ氏に、「既存のコンポーネンツを使いつつ、話題となるような良いスタイリングで、2+2+αの居住性や実用性が高く、ラゲッジルームの使い易さのアイデアが欲しい」という条件が出された。1978年5月9日にジュジャーロ氏と宮川秀之氏、そしていすゞとのトップ会談があり、そこでこのプロトタイプの製作が決定した。その内容の一部には、『ジェミニ』のシャシーとエンジンを利用するものだった。
当時のいすゞデザイン部長が「宣伝会議 別冊」1982年12月号「いすゞ自動車『ピアッツァ』のスタイルがいすゞデザインの証」において、「ジュジャーロ氏から送られてきた最初のアイデア・レンダリングは、当時ジュジャーロが主題としていた一連の『アッソ・シリーズ』のスケッチだった。それは、彼が永年追求してきたデザインテーマ、“快適な居住空間と優れた空力的造詣の融合”を試みたもので、鋭いウエッジシェイプとフラッシュサーフェースのボディスタイルを持っていた。そこに当時のいすゞデザインのデザインフィロソフィ“カプセルシェイプ”を加えたものが最終レンダリングとなり、最終決定は1978年10月だった」とコメントしている。

そして1979年1月、ランニングプロトタイプの製作を開始。3月のジュネーブモーターショーに間に合わせる様に完成させたのである。
ショー会場での評判は上々。そこでいすゞは量産化を決定。1981年5月13日、ピアッツァとしてデビューしたのである。
